わたしの水伝に対しての感想

わたしには「いい話」とは到底思えない

水伝を「その科学的真偽に関わらずいい話だから信じる」という方に聞いてみたい。

水伝の主張はざっくりと言えば「ビーカーに入れた水に書いた文字を見せる。その言葉によって結晶がかわる。」という事。

例えばあなたがおっちょこちょいな失敗をしたとするよね。その時に彼氏/彼女が「馬鹿だなぁ」と言いながら抱きしめて慰めてくれたらどうかな? これは汚い言葉? 違うよね。愛情に満ちた言葉だよ。水は字面だけでしか判断しない。でもわたしたち人間はその言葉に潜む気持ちを汲み取ることができるはずだ。

逆に「どうしようもない人間の屑で馬鹿で最低の人間だ」という言葉を見せたときに綺麗な結晶ができたらどうするのだろう? 水が綺麗な結晶を作る言葉と、人間がいい言葉だと感じるものが同じである保障なんて無いんだよ。

なにより「汚い結晶」なんて誰が決めるんだろう。ある人にとって綺麗な結晶もある人にとっては綺麗ではないつまらないものかもしれない。あなたの考える綺麗な結晶は万人に共通する価値観とは言えないのだ。言葉だって同じ。だから相手によって使う言葉を選び言い方を選び語調を選ぶ。それこそがお話をするときに相手を思いやるということだし優しさってもんじゃないかな。

水素原子二つと酸素原子一つで構成された分子の集合体。それが水。そんなものにわたしたちの価値観が決められてしまうというのは「いい話」かな?
人それぞれに価値観はあるから「いい話」って思うのがいけないというんじゃない。
でもわたしには「水が言ったから」じゃなくて、人が自分の頭で相手のことを思いやるために言葉を選んで使うことのほうがずっと優しくていい話だと思うんだよね。

ただの「教育のための方便」だとしても……

水伝で語られている事を理由として「いい言葉」を使うとします。子供にもそう教えたとする。でもその理由が間違っているとしたら?
水は言葉で結晶を変えることなんか無い。言葉で水が影響されるから良い言葉を使ったほうがいいのであれば、言葉で水が影響されないのであれば良い言葉を使わなくてもいい事になる。

水がどう判断したってわたし達はわたし達の頭でどんな言葉を使うのか判断すべきじゃないかな?なんで良い言葉を使ったほうがよいのか。それをしっかり考える。それは耳障りが良い寓話で道徳を覚えさせるよりもわたしには重要に思えるのです。